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2010年10月25日

ちっぽけな自分


こんにちは。

シイケイスケです。

いつも言示録や、モノラルブログをご覧いただき本当に有り難うございます。


今日は、最近思っていることを、まとめて文章にしてみようと思っていますので、

長文になると思います。



興味ある方は、ぜひお付き合いくださいませ。




『自分からの世界と、世界からの自分』




現代は、特に、複雑な世の中になり、

シンプルなことを、難しくしてしまうことが多いようですが、

皆様は、現在に生きて、不安や苦悩の無い、

颯爽溌溂、愉快な毎日をお過ごしですか?


現代に生きて、これほどまでに、進化した文化を築き上げても、

自分自身が、自分らしく生きていくための、

考え方であるとか、

その具体的な方法を、

自分自身が理解しているか、否かということは、

とても、重要なことであるように思うのですが…。

それを語り合う方の方が少ないようです。


出逢う方の中には、自分自身がわからない。という方も少なくありません…。



この問題は、本当重要で、

どれだけ、社会が進歩し、革新した道具が生まれたとしても、

多くの人にとって、人生で大切な目的が明確で無ければ、

道具を得る必要性も、それを使う理由も…なくなってしまいます。



シンプルなことを難しくしてしまうというような事が日常的に行なわれていますね。


考えても仕方が無いようなことまで考えている結果、

本当は、すごくシンプルなものを、シンプルに取り入れられない

その理由とはなんでしょうか。

過去の私を含め、人生を難しく、不安定に生きている方のほとんどが

『自分』のことを中心に考えている結果やってくる現象からだと考えています。


自分のことを、中心に考えていると、

『自分以外』が見えずらくなります。


その結果、自分自身と社会的な関わりや、

社会全体、世界全体、宇宙全体から自分を見ることが出来ず、

起こる事実の本質が見えなかったり、

世の中との繋がりや、宇宙全体とのつながり、

他人や他者を受け入れられなかったり、

自分と他人を比較してしまったり、

自分の世界で、起こることを、

自分自身の世界だけで解決しようとして、苦しんでしまうのですね。


たとえば、

サーフィンを例にすると、

自分自身のことばかり気にする人は、

あまり、上達しないと思います。

波のこと、海のこと、サーフィンという自然の中に出来た遊びを考もせず、

自分の事しか考えられない人は、なぜ?上手く波に乗れないのかを悩むわけです。


そこで、とても良いサーフボードを購入したとしても、

どんなに良いウエットスーツを購入したとしても、

どんなに自分を気にしてみても、上手くいきません。

サーフィンにも、自分の事を気にする以前に、

もっと、大切なことが、あるわけですね。

刻一刻と、表情や強さ、まったく違う波がやって来ることを知っており、

海という時に優しくも、時に牙を剥く一面を持った

偉大な自然のことをよく理解しているサーファーは、

自分に執着せず、波や、海全体と調和し、

溶け込むように、波と楽しんでいるように感じます。

そうした中で、本質的な楽しさを味わい、いつの間にか上達していくのです。

目的を達成するには、自分自身に執着するのではなく、

もっともっと大きな世界から、自分自身を省みることが必要であることを教えてくれます。




話を戻しますが、

現代においても、未だ解らないことの方が多い、世の中で、

自分の世界だけで、それを理解出来るわけがありません。


考えても、考えても、見つからない答えを、いつまでたっても考えていても

それは、時間や労力ばかりを費やすだけです。

自分に執着することが、

反って、自分を苦しめる理由はそこにあると考えられます。



『自分自身から世界を見るのではなく…、

       世界から、自分自身を見る。』



論語の中にこんな一節があります。

孔子の弟子である、『顔回(がんかい)』という人と『子路(しろ)』という人が

孔子から、『お前たちの志を聞かせてくれないか?』

と言われます。

子路(しろ)は、

「私は、馬車でも馬でも衣服でも何でも友人と分かち合い、
 
 例えそれらを駄目にされても怒らない人間になりたいです。」

と答えました。

そして顔回(がんかい)は、

「自分の善い行いに自惚れる事無く、人に苦労を押し付けない人間になりたいです。」

と答えました。


そして、二人は、

孔子に

「どうか先生の志を聞かせていただけませんか?」

と尋ねました。

孔子は、

「老者安之、朋友信之、少者懐之」(原文)

「老者には安んぜられ、朋友には信じられ、少者には懐かしまれん」
(『論語』、公冶長篇)

と言います。その意味は、

『 老人には安心されるように、友だちには信ぜられるように、

  そして若者には慕われるようになりたい。』

という意味ですが、

ここで、孔子が言いたかったことは、



弟子たちが『自分は、こうなりたい』と言った事に対して


孔子は、 『他人にとってこうありたい』という、視点の違いでした。



要するに、孔子は、

自分を、他者から定義するものと考えていて、

自分という人が生かされ、心も、体も、豊かに生きることができるのは、

自分の力ではなく、他者であるという考えから

『自分が、こうなりたい!』ではなく、『皆にとって、こうありたい!』

と、そういう言葉になったのでした。




私たちは、ついつい、自分の立場から発言したり、

行動の本質が、自分本位になることがあります。


約、2400年前に、孔子が考えているように、

『自分』を定義できるのは、

『他者』があって初めて成り立ち、

私を生かしているのは、大きな計り知れない可能性であって、

宇宙であって、

地球であって、

世界であって、

他者であるということを、

私たちは、もっと、もっと、学ばなければならないと思います。


他者や、自分以外の大きな世界から、

自分自身をもう一度省みて、

自分が直面していることを、もう一度考えてみたいものです。


世の中には、家も無い、着る服もない、

食べるものも貧しい・・・

そうした地域があること、

現在も、戦争中で、夜も安心して寝れないような地域もあること、

日本人に生まれて、暖かい布団で眠れて、

食べるものに苦労せず、寝る場所に苦労せず、

私たちの悩みというものは、どうしてこんなに小さなものでしょう。

私たちには、どんな人間であれ、大きな可能性を秘めていると思います。

自分自身の奥深くに内在する可能性を発見し、

それを発揮して生きていきたいものです。

私たちには、それぞれに役割があります。

与えられたたった一度きりの機会を、

積極的に、生きていきたいですね!!


多くの方々のおかげで、私は商売ができ、多くの方のお陰で、

今日もご飯が食べられ、多くの方のお陰で、寝る場所があり、

安心して眠りにつけます。

本当に有り難い、幸せな毎日に、心から感謝したいと思います。



本日は、大変、長い時間、失礼しました。

最後まで読んでいただき、心から、感謝いたします。

皆様方と、私の心に、眠る大きな可能性を感じたいと思います。

ありがとうございました。


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